【レビュー】ゲームポエム集 バビルサの牙
依酉みどり・作
記事・るいべえ
『バビルサの牙』は、数十のゲームポエムを収録した小冊子だ。一つ一つの作品は長くて2〜3ページで、1ページ以下のものも少なくない。
本のタイトルともなっている「バビルサの牙」を遊んでみよう。
あなたは記述に従い、腕を前に伸ばし、人差し指を自分の眉間に向ける。そして、自分に対するコンプレックスを口に出して唱えながら、指を牙に見立てて己に近づける。さらに自分への悪口を言い、さらに指を近づける。それが眉間に達したとき、あなたは死ぬ。しかし目が覚めた時、牙はもう消えている。
勝ち負けも、うまくやれたかどうかという基準もない。(その点ではほとんどのゲームポエムがそうだ)
この説明を読んだあなたはこう思うかもしれない。
「それで?」
こうも思うかもしれない。
「ちょっとこわい」
もしそうなら、この感想はどちらもとてもゲームポエムらしいものだ。
結論を先に言うと、ゲームポエムは「ちょっとこわい」。その理由は、「それで?」の先がないからだ。
別の本からの話を引用しよう。
『ルールズ・オブ・プレイ』という本の中で、「マジック・サークル」という概念が紹介されている。この概念はゲームとは何かを語るうえで非常に大事なものだが、とりあえずここでは「日常とゲームを区別する枠組み」というくらいの理解で進める。
上記の本ではそれに続き、心理学者のマイケル・アプターという人の論が紹介されている。*
孫引きすると、
「遊んでいる状況では、人は、自分と「現実世界の間にある防御枠やその問題を経験するわけだが、この枠は、魔法のかかった領域、つまりそこでは危害を加えられることがないと安心できるような場を作り出すものである。」
ここでは、ゲームというのは、それが何をテーマにしているかに関わらず、人を安心させる作用があるという主張がされている。この主張はわりあい合意を得やすいのではないだろうか。
よくドラマなどで、引きこもり状態の人を記号的に表現する手段として、自室でゲームに没頭している光景が描かれる。それはもちろん、外界の脅威に対する心理的防御壁としてゲームが用いられる、と広く理解されているからだ。
そのテーマがたとえ競争的であっても、戦争やネガティブな状況を扱っていても、それがゲームである限り、それは遊ぶ人を現実から一時的に守る場であり得るし、人がゲームを遊ぶ根本的な理由の一つではあるだろう。
ひるがえって、「バビルサの牙」はどうだろう。
このゲームは、はっきりと自傷行為をテーマにしている。ほとんどの人は記述通りに行動して何も感じないかもしれない。だがもしかすると、指を自分に向ける姿勢をとったとたん、はっと脅威を感じる人もいるかもしれない。しかし、同時にこれはゲームとして提示されている。指は牙ではないし、眉間に刺さりはしないから死にはしない(そもそも実在する動物であるバビルサも自分の牙で死ぬことはないらしい)。
つまりこれは被膜に包まれた牙のようなものだ。安全ではあるが脅威を思い出させる形をしてはおり、同時にゲームであることそのものが安全を保証しているからこそ、脅威を脅威のままで扱い、そこからの死と再生という経験を誰にでも実行可能な手続きにパッケージしている。
さらに重要なことは、「バビルサの牙」を遊んだ後には全く別のゲームが待っているという事だ。
この『バビルサの牙』という作品集の大きな値打ちの一つは、まさにこれが”作品集”として編まれたこと自体にある。
収録されている数十のゲームポエムは、親密な仲間同士でワイワイ楽しむことを想定したもの、自分独りで部屋の中で遊ぶもの、または仕事や生活の合間にふと思い出して頭の中で勝手にはじめるようなもの、などがばらばらに配置されており、各ゲーム同士でジャンル分けや章立てなどはされていない。むしろ、多様な言葉のモードをふらふらと行き交うように意図的に設計されている。
この構成は短詩系文学、つまり俳句や短歌、川柳の作品集と比較できるかもしれない。句集や歌集では、ときに章立てされ、ときに連作としてストーリーの抑揚も意識されつつ、同時に、作家の個性や私性を読者が容易にわかったような気にならないように構成上の企みが施されている。個々の作品ひとつひとつを味わうのとは別の、全体性や連続性への興味を、それが決して達成されないように(もし達成されてしまうと、個々の短詩はただの部分になってしまう)しながら利用している。
対して『バビルサの牙』がしようとしているのは、このゲームポエムが遊ばれるであろう「場」を、伸び縮みし、安全とも不穏とも言い切れず、魔法がかかっているかどうかあやふやなままの、閉じ切っていないCの字のようなサークルとして立ち上げるという企みなのかもしれない。
伸び縮みする場を体感できる作品の一つが、たとえば「じゃがいもと哀しみ」だ。
ページを開き、そこに書かれた「○○する」という形の文を命令文ととらえてそれに従おうとすると、次の行では「自分の心の重たさに見合う重さのじゃがいもを探す」と言われて驚かされるだろう。自分の心の重さが物理的に何百グラムくらいなんて考えたことがあるだろうか?さては、この文章はトリッキーな比喩を駆使する詩みたいなものなんだろうか。そう考えて、それに合ったモードで読もうとすると、今度は具体的なじゃがいも料理のレシピが続く。じゃがいもは詩の言葉としてではなく、マヨネーズ、酢で和えられて、胃袋に消える。
または、こういうことがあった。
「証言」という作品では、プレイヤーたちは、「そこにさっきまで誰かもう一人いなかったか。それはどんな人だったか。どうしてここから消えたのか」ということを口から出まかせで話し合う。ある程度話が出尽くしたところで「証言」は終了となり、次に移る。
テキストとして書かれているのはそれだけだ。
ところでその日、私たちのゲーム仲間は公民館の会議室を借り、「バビルサの牙を遊ぶ会」を開いていた。冊子の掲載順で一つずつ検討していくという形を取ったので、比較的最初の方にある「証言」をやった後、さらにいくつかの作品を遊んだ。日も傾きかけた頃、別のゲームの最中に全く唐突にドアが開き、入ってきた誰かはこう言った。
今日は何遊んでるの?近くで別の会をやっているから挨拶しとこうと思って。
2、3分の会話ののち、その誰かは帰っていった。そこに共通の知人はいたが、予想していた集いとは違っていたことに気が付いたのだった。
それからしばらくして、参加者たちは不意に気づく。今の人が「誰か」だ。
つまり、「証言」という作品では、参加者たちは互いの言葉を通じて、「いかにもこの場にいそうな人」という輪郭だけを持ち、中身が空白のカギ括弧「 」のようなイメージを作っていた。その不完全なイメージの残滓は、参加者たちの関心が別のゲームに移った後にもその場を漂っており、そして不意に起こった偶然の遭遇によって、そのカギ括弧は初めてカギ括弧としての機能を果たし、誰かは「誰か」になったのだ。
このように、「バビルサの牙」所収の作品を一つ一つ遊ぶごとに、具象と抽象、ゲームを遊ぼうとする「場」とその外側、生活と想像、などの境目はあいまいな汽水域になっていく。明確な枠をもった「ゲームらしいゲーム」と比較すると、盲目的な「安心」からは遠ざかっているが、同時にひと肌の温かさもある。
温かさを感じる理由の一つに、この冊子の装丁による要素も大きいだろう。表紙の、バビルサを誘うようにゆれる植物の葉の緑色は、先述の「安心できる場」を作り出す具体的な装置としても効果的に機能している。
(ゲームポエムの「こわさ」の理由の一つは、インターネット上の掲示板に自然発生的に書きこまれた記述を元にしている、というジャンルの起源ゆえに、ぶっきらぼうな記述としてしか存在しない作品が多いせいでもある。そのために、この作品には悪意が紛れ込んでいない、という確信を外部からは持ちにくいのだ)。
*ケイティ・サレン, エリック・ジマーマン 著, 山本 貴光 訳『ルールズ・オブ・プレイ ――ゲームデザインの基礎』 9. マジックサークル/魔法円